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リタイア後、本格的にヴァイオリンの練習を始めました。しかしそれを追うようにがんとの闘いも始まりました。思うに任せぬ日々の哀歓を綴りながらも、何とか上達のきっかけを得んとする一老楽徒のブログです。


by teiwait
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写真館

 NHK朝の連続テレビ小説「芋たこなんきん(田辺聖子原案、藤山直美主演)」の、時々出てくる回顧部分のシナリオに、昭和13年以降の大阪における写真館一家がある。花岡町子役の藤山直美さんが、回顧シーンでは10歳の小学生を演じる子役(ごく最近は女学生役)にチェンジされ、曾祖母・祖父母・父母を含む写真屋稼業の哀歓が綴られている。

 ドラマ好きのせいか、やはりNHKの朝ドラ「なっちゃんの写真館(1980)」の記憶も蘇り、連鎖的に私の戦前時代にまで想いは遡る。

 写真と言えば、それはモノクロームの写真のことであった。奉安殿に納められたご真影(天皇・皇后両陛下の)も、俳優のプロマイドも、映画はもちろん初期のテレビもみな、白黒のみの時代が長く続いてきた。

 しかし家族の記録写真に対する思い入れは、すべてがカラー化された現在の人達より、遥かに強かったように思う。

 無事に満1歳を向かえた赤ん坊の顔、入学、入営、結婚、といった人生の節目節目の記念写真を揃える行為は、一つの栄誉とさえ思われていたように思う。(私の推測に過ぎないが、第1次世界大戦による好景気が、この傾向を助長したものと考えられる)。

 しかし当時カメラは貴重品であり、田舎には現像・焼付けの委託システムも無かったから、自家用のカメラを持つ人はごく限られていた。このような事情から専業の写真屋さんが増え、津々浦々に写真館が開業されたのである。

 大正末年に、22歳で夭死したY叔父(私の父の弟)が、開業を夢見て写真の修行に励んだのも、時代の波であったのであろう。私が生まれる数年まえにY叔父は死んでおり、父も祖父母もこの悲しい出来事を、私たち兄弟にはあまり語らなかった。

 しかし我が家の座敷には、新聞紙大に引き伸ばされたY叔父の和服姿の半身像が、やや贅沢な額に入れて飾られいたし、鶏小屋の隅の木箱には、大小さまざまなガラス製のネガが、ぎっしり詰まったまま放置されていた。

 普通の農家にはないこうした品々が、未完の写真家たるわがY叔父への憧憬を、子供たちに抱かせた。またY叔父はペン書きの日記帳を数年分遺していたし、川柳にも親しんでいたようで、私が小学生になってからでも、小樽市在住の(嘗ての)投句仲間から、年賀状が父あてに届いていた。

 関東大震災の記録書である、「大震災大火災」という分厚い本が我が家には在った。それはY叔父の投句が入選し、その賞品として贈られたものだと祖母は言っていた。

 さらにY叔父がヴァイオリンを能くしたことを、母が折りにふれ私に洩らしていた。読書好きであったY叔父は強度の近視で、どの写真にも眼鏡が写っていた。背は父よりも高かったが瘠せて、些か弱弱しく見える。男性を剛毅タイプと文弱タイプに分ければ、Y叔父は明らかに後者に属する。

 「農家に生まれ育つ男の子は、みな剛毅であって欲しい!文弱型はY一人でもう沢山!」というのが、私の幼少期に接した親達一同の念願で、とくに祖母は私に、雑誌や小説の類を読ませまいとすらしていた。

 Y叔父は胃腸が弱かったため就農せず、写真の道を志したのであるが体調が思うに任せず、実態は親達の家での療養の傍ら、趣味に近い形での写真修行であったようだ。

 Y叔父の修行中、祖父は懸命にYのための資金作り(藁縄加工など)に励んでいたが、その望みが絶たれ、落胆して一時は酒びたりになっていたと、祖母が私に向かってつぶやいたことがある。

 話し好きの父は、Y叔父ともよく雑談していたようで、写真撮影に対する一通りの知識は得ていた。

 私達の小学校で撮る学年毎の記念写真に対しても、「この光線の按配はまずかったな」とか「この印画紙はピーコックの安物じゃないか」などと得意げに批評していた。

 その当時、人物を記録する写真は、リアルに仕上げるというより美しく仕上げることに執心していたようだ。顔の黒子やそばかすも、極力目立たぬようネガの段階で修整(消去)してしまうのである。

 この修正技術の巧拙が、写真屋さんの腕としてかなり重視されていたのである。父はこの点に関しても鋭い批評を浴びせ、一同を笑わせたり感心させたりしていた。

 私達の村にも写真屋さんは在った。村役場を中心に郵便局、巡査駐在所、農協、呉服屋、荒物屋、魚屋、肉屋、蹄鉄屋、などが並ぶメインストリートから、一歩入った運河沿いの小路に面して、木造二階建ての洒落た造りで、「リリー写真館」という大きな看板が掲げられていた。

 当然のことながら小路に面したウインドウには、盛装した人達の晴れやかな写真が、大小取り混ぜて飾ってあった。写真屋にとっては大事な腕の見せ所であり、修正作業に、心血を注いだ逸品が選ばれていた。

 父が私たち子供らを相手にしゃべったことであるから、真偽のほどは定かでないが(Y叔父からの受け売りであったとしても)、次のようなことも披瀝していた。

 「ロシアほか外国の写真家は、現像液の調合などに工夫を凝らして、美しく焼き付ける努力をしている。貧困なわが国は、その点ではかなわないから、手先の器用さを頼みに、修正技術を磨いて負けないようにしているのだ」

 戦後5年ほど経てわが国のカメラ産業がようやく復活してきたとき、私は2眼レフのカメラを購入した。そして2眼レフが得意とするポートレートを、誰彼なく撮っては配った(勿論まだモノクロの時代である)。そうこうするうち私は、或る年配の婦人から

 「はっきりと写ってはいるけど、これじゃ地肌がまる見えだね?」と、困惑の体で言われた。やや後れて私は気が付いたが、この婦人にとっての「写真」は、人間が描く「肖像画」に近いものであり、鏡にうつる映像とは異質の幻想的な「美術品」だったのである。

 鏡の映像は天然自然の色彩で出現するが、それを単彩画にすることは、情報量の縮減であり若干の抽象化である。そしてネガ(陰画)という単彩画があったがゆえに「修正技術」が容易に成立し、抽象化が深化したのではなかろうか?

 いま思うと、前記婦人の期待は2眼レフの性能ではなく、シャッターを切った私の絵画化の能力であった。

 それにしても、実物以上に美化された見合い写真が結婚を促進させ、老いたる媼を元気づけるなど、レンズの解像力が低かったのをよいことに発展・普及した「写真(偽装)業」の歴史的意味を、何方も追究して下さらないのだろうか。

 話を戦前に戻そう。私が「リリー写真館」のスタジオに入ったのは、受験写真を撮りに行った時の、一度きりである。米英との戦いが始まり、軍需産業に人を回すため、商・工業者のかなりの人達が転業させられた頃である。
写真館_d0041889_3552135.jpg【当時の受験写真を左に示す。向かって右側の凹部は、割り印(学校の)を押すためのスペースである】

 Sさんという写真館の主人は、丁寧に私を写したのち、傍らにいた別の大人のお客さんに、
 「いいよねー!このくらいの若いときは。親たちの苦労なんて全然意識せずに暮らせるから・・」

 といった意味の、言葉をかけて一寸微笑んだ。以前から顔見知りのSさんの顔が、このときはとても淋しそうに見えたのを記憶している。

 戦後一度私は、或る親戚の不幸でその告別式場へ駆けつけたとき、親族一同のための記念撮影をしているSさんを見かけた。このときのSさんは元気そうな声で、「はい!こちらを見て!」パチリとやっていた。

 先日私は故郷に住む弟に、電話で「リリー写真館」のことなどを尋ねた。その結果、現在も写真屋さんは在るが、それは別人が起業したもので、リリー写真館はSさんの代で終ってしまったとのことである。

 また弟は嘗てSさんと、何度か雑談したことがあるようで、
 「あなたの叔父にあたるYさんと、自分は同世代であり、共に写真の道を志していたから、交遊の思い出はいろいろある」と言われた旨、付言していた。

 戦後世相の遷り変わりは激しかった。前述の如くカメラの製造はいち早く復活し、多くの人達が自家用のカメラで家族の記録を撮りはじめたから、以前から在った写真館の存立基盤はかなり崩れ、転・廃業に追い込まれた店も少なくない。

 先日偶々私が、図書館から借りて読んだ短編小説「南瓜の花(1984年刊 曽野綾子選集Ⅱ第4巻)」にも、孤独に生きる老婆の姿を描く過程で、結核で亡くなった夫の職業に写真屋を、また仲たがいして暮らす息子の稼業にDP屋を充てていた。

 今朝(11月30日(木))放送の朝ドラ「芋たこなんきん」に、花岡写真館の当主(岸部一徳の扮する。 町子の祖父)が、ペンや筆を操ってネガの修整をしているシーンが映されていた。父(私の)から漠然と聞かされていた写真修整の実態について、私なりに首肯することが出来た。嬉しかった。

 「リリー写真館」で撮った小さな私の受験写真は、セピア色に変色してしまったが、最近スキャナによってデジタルの画像に拡大され、色調も見事に復活した。正月を迎えるごとに老い込んでいく私にとって、蘇る若き日の映像と対面させられるのは、何とも複雑な想いである。
by teiwait | 2006-12-01 04:29 | 随想